0系花魁車

0系花魁車(おいらん車)をクラシカルに再現

「花魁車地景公園」

台湾高速鉄道会社は台湾の鉄道文化と資産を保存するパイオニアとして、建設期の2003年から重要な歴史的物品の収集、研究と保存、メンテナンスを開始しました。続く2017年には桃園高鉄運営センターに正式に台湾初の高速鉄道博物館-「台湾高鉄探索館」を設立し、台湾高速鉄道のテクノロジーと文化、歴史教育の推進と発展に全力を尽くしています。世界初の高速鉄道「0系花魁車(おいらん車)」を正式に受け継ぎ収蔵したことで、「台湾高鉄探索館」は世界の鉄道文化遺産の保存、メンテナンス、伝承の更なる重要な使命を担うようになったのです。

花魁車地景公園の展示エリアのスペースは、0から出発して無限大へと発展する要素により、0系車両と台湾高速鉄道の物語を描写しています。建築は垂木の梁による3本の軸線が交差した放射状の構造で「扇形庫」のイメージを形作っています。花魁車地景公園も台湾高鉄会社初の実車を展示する公共空間となっています。

花魁車地景公園実景 (VRガイド)

世界初の高速鉄道電車 - 「0系」は台湾にあり

「0系」は世界初の高速鉄道電車であり、日本の新幹線の始祖でもあります。人類の交通と生活に貢献し、革命的な変化をもたらした機械による卓越した業績を広く伝えるため、2007年8月に日本で機械遺産に登録されています。新幹線0系電車は運行開始から44年後、2008年正式に高速鉄道の世界から引退しました。

この世界初の高速鉄道「0系」(車両番号21-5035/旧:21-1032)は台湾高速鉄道の建設期に、JR西日本から当時台湾高速鉄道の中核機電システム契約を締結した日本の「台湾新幹線国際工程会社」(TSIEC)へと贈与され、2004年に海を渡り台湾にやってきました。台湾高速鉄道の建設過程において「建築限界測定車」を担当し、「花魁車(おいらん車)」とも呼ばれています。任務を果たして引退後の「0系」花魁車(おいらん車)はTSIECの請負業者より台湾高速鉄道会社に譲渡され、2012年に台湾高鉄探索館のコレクションとして正式に台湾高速鉄道の鉄道文化資産となりました。また世界で2台しかない、日本国外にある0系となっています。

0系花魁車(おいらん車)は調査研究と修復を経て、最終的な設置場所として台南高鉄駅が選ばれました。「台湾高鉄探索館-花魁車地景公園」に設置され、「0系」の高速鉄道における首位を占める革新的なテクノロジーと達成感が表現されています。また新幹線「0系」が台湾で「現地化」した二次的な姿と派生した機能を明らかにすることで、異国での再生というだけでなく、台湾高速鉄道と交じり合うことで台湾高速鉄道の文化と歴史の一環を担うことになりました。

花魁車(おいらん車)の経歴

台湾高速鉄道 花魁車(おいらん車)の経歴

1978年6月: 21-1032がNH21編成に追加。大阪第二車両所に配属される。
1986年11月: 博多総合車両所に転属となる。
1987年4月: 日本の国鉄の民営化により、JR西日本へと所属される。
1996年3月: H21に編成へ組み換える。
1998年1月: H21 編成が解除され、保留車となる。
1998年2月: リニューアル改造で21-5035となり、R1編成に追加される。
2002年1月: R1編成が解除される。
2002年2月: 新たにR6 編成へ組み換える。
2004年3月: R6編成が解除され、廃車となり、「台湾新幹線 花魁車(おいらん車)」に改造される。

台湾高速鉄道における文化資産の保存

「花魁(おいらん)」の由来について

「花魁車(おいらん車)」とは日本の鉄道業界での建築限界測定車の俗称です。路線の建築限界の測定と軌道へのニーズに基づき、台湾高速鉄道では車体外部に多くの「かんざし」のような測量機器を設置し、任務時に車体から延伸させる必要がありました。外観がまるで江戸時代の花魁が髪にたくさんのかんざしを挿したかのようであったことから、「花魁車(おいらん車)」というニックネームがついたのです。

建築限界測定車 画像出典:Wikipedia Common

0系花魁車(おいらん車)のDNA

「0系花魁車(おいらん車)」はもともと日本で引退した「0系」(21-5035)の先頭車両です。小窓車で1000番代の車両の一員であり、25次車の新幹線の車両に属します。東急車両製造工場により1978年6月19日に製造されました。車内銘板によると、この車両は平成10年(1998年)にJR西日本の博多総合車両所にて「建設限界測定車」へと改造され、2004年7月16日に台湾にやってきました。台湾高速鉄道の建設に協力し、台湾高速鉄道の運行時の高速運転における安全性を確保するため、列車走行範囲の空間限界の合否についての測量作業を行いました。

メンテナンスの工程と記録

「0系花魁車(おいらん車)」は台湾での「建築限界測定車」としての運用終了後、一時的に高鉄新竹六家基地に保管されていました。何度も簡単な修理は行われましたが自然による破壊には抗えませんでした。この世界の鉄道テクノロジーにおいて時代を築き、大きな意義を備えた鉄道文化資産を保存し伝承するため、2018年国立科学工芸博物館、鉄道の専門家と文化保存チームによる調査研究が行われました。「0系花魁車(おいらん車)」の2004年から2006年間における運行期間の外観と内装の復原を修復目標として、またリガ憲章(The Riga Charter)の精神を遵守して「0系花魁車(おいらん車)」の修復計画が制定され、2019年に修復が開始されました。

注1:リガ憲章は鉄道遺産を後世の人々に伝えるための関連する方針を規範しています。すなわち、歴史持ちや運営中の鉄道施設を保護、修復、修繕及び運用を規範する原則条文であり、鉄道関する建物やインフラなども含めてます。

修復前、台湾高速鉄道新竹六家基地に一時保管 修復前、台湾高速鉄道新竹六家基地に一時保管

「0系花魁車(おいらん車)」の修復工程には車両の内外、車体の外観の整備、塗料の復原、マークの復原、ガラス窓の汚れ除去と窓磨き、ヘッドライトの汚れ除去、下部の警笛ペダルと排障器の復原、すべてのサビたパーツと塗料の除去、サビ止めなどの工程を経た後、外観の滑らかさを確保するため、精密な補修や新たな板金を溶接を施しています。車体への塗装には0系電車の「青20号」と「クリーム色10号」の代表的な配色を採用しました。車体に施された数字とマークはすべてオリジナルのフォントと図案でペイントや復刻させています。車内についても、運転席の制御パネルのリメイク、運転席の修理などのきめ細やかな整理が行われました。

「0系花魁車(おいらん車)」は2019年12月に2年間にわたる修復作業を完了し、台湾高速鉄道の収蔵する文物のメンテナンスと保存における範例となったのです。

0系花魁車復元記録
0系花魁車復元記録

六家基地での車両修復前のクレーン吊り上げ作業 六家基地での車両修復前のクレーン吊り上げ作業

修復工程:パテ、仕上げ 修復工程:パテ、仕上げ

修復後 修復後

修復前 修復前

世界初の高速鉄道東海道新幹線

新幹線0系の誕生

世界的な高速鉄道のパイオニアの伝説 - 新幹線「0系」

「0系」電車は日本の鉄道技術の集大成です。東京オリンピックの開幕を前に1964年10月1日、日本の鉄道マンの心血が凝縮された高速鉄道テクノロジーの東海道新幹線が正式に開通しました。東京から大阪まで、以前は7時間かかっていたところが4時間へと大幅に短縮されたのです。また運営開始から2年目には世界からの羨望の的となる時速210キロを達成しました。

「0系」新幹線は日本の鉄道で44年の長きにわたり疾走し、いかなる傷害・死亡事故も起こしていません。「安全神話」を書き記した「0系」は、2008年に功績を残し引退しました。新幹線「0系」の成功による鉄道テクノロジーは世界各地の高速鉄道の研究開発を刺激し、フランスのTGV(1981年)とドイツのICE(1991年)などの相次ぐ登場を促し、革新的なテクノロジーにより、人類の生活と産業や経済におけるスタイルを新たに定義づけることになりました。

新幹線0系の命名

新幹線(新幹線/しんかんせん/Shinkansen)では標準軌(1435㎜)の線路幅が採用されています。既存の「在来線」とは異なる全く新しい幹線であることから、「新幹線」と呼ばれています。「0系」は初期にはただ「新幹線電車」と呼ばれていました。内部での公式名称は「000系」であり、東北、上越新幹線の200系がサービスに投入された後に「0系」と称呼されることが広く普及しました。

新幹線「0系」の設計

1950年代の終わり、日本は第二次大戦後から経済が徐々に回復して、東京都と大阪市間で最も切迫したニーズがあったのが高速輸送手段でした。東海道新幹線の建設のはじめに、国鉄総裁・十河信二は国鉄技師長・島秀雄を列車の設計総監督に任命しました。

動力分散方式と交流電流モデルによる革新的なテクノロジー

鉄道の発展初期には、機関車が一般の客車を牽引する「動力集中式」が用いられていました。しかし島秀雄は革新的な思考により動力モジュールを各車両に分散させることで、平均的に各車両の路床に対する圧力を分配できると考えていました。日本の脆弱な地質に適しているだけでなく、建設コストと路線のメンテナンスに必要となる支出を節約できたのです。

十河信二と島秀雄に率いられ、新幹線を高速走行力と強力パワーのある電気列車とするため、国鉄では「動力分散式」による新型の電気列車の研究開発が開始されました。このほか国鉄では率先して高速鉄道で使用されている交流電源による電力供給モデルを研究開発しました。当時の国際的な電気列車が汎用する直流電源モデルに比べると、交流電源の功率はより高いパフォーマンスがあります。

弾丸のような流線型のデザイン列車

0系先頭車は長さ25メートル、幅約3.4メートルです。車両の床は地面から1.3メートルの高さにあり、車体は炭素鋼で製造されてるため1両当たりの車両の重さは64トンに達します。「0系」で最も称賛されているのは、飛行機のコックピットのような操縦室と、まるで弾丸のような先頭車両です。これらの構想と概念は主に設計者の三木忠直の過去に飛行機を設計した経験と原理によるものであり、当時鉄道業界で普遍的に信じられていた列車の時速は160キロを超えられないという保守的な観念に挑戦し、新型で車体軽量化とかつ高速化された列車を設計しました。また弾丸のような流線型の造形により、時代に先駆けている美観を具備えるだけでなく空気抵抗の減少も助け、時速210キロを達成しました。これはほとんど当時の飛行機の速度に匹敵する速さといえます。

時代と流行、文化を象徴する車体の塗装

「0系」電車のオリジナルカラーの塗装は当時の航空業界の覇者だったパンアメリカン航空(注2)の飛行機塗装と、日本たばこハイライトのパッケージデザインを参考にしたものです。車体は主にクリーム色、車窓付近は今まで東海道新幹線踏襲する「新幹線ブルー」で塗装されています。この2色はそれぞれ白い雲と青空を表しています。このことから「0系」の車体のカラーデザインのインスピレーションが、主に1960年代のテクノロジーと流行、文化の象徴を顕著に表現していることがわかります。

注2.パンアメリカン航空(Pan American World Airways,Pan Am)は1930年代から1991年の倒産前まで、グローバルな航空業における際立った指標でした。ジェットエンジン搭載の旅客機とジャンボジェットを率先した大量使用、コンピュータ予約システムの運用開始など、20世紀の交通と文化の象徴でした。

時代と流行、文化を象徴する車体の塗装 画像提供 / 陳映彤

花魁車(おいらん車)を覗く

花魁車(おいらん車)の分析と建築限界測定作業について

台湾高速鉄道は設計段階で線路上のそれぞれの横断面、特にホーム、トンネル、橋梁、カルバートなどの場所にはクリアランスが保留され、すべて建築限界の規範に準拠しています。竣工後には各種の測量手段で確認が必要となります。この時、「建築限界測定車」の登場となります。

「0系花魁車(おいらん車)」は主に建築限界測量を担当しています。台湾高速鉄道の建設期間における駅の構造、ホーム施設、橋梁やトンネルなどの構造が建築限界を超えていないか、線路のクリアランスの範囲内に侵入していないかどうかを確認することではじめて台湾高速鉄道運行安全を確保できるのです。

沿線のクリアランスが適格かどうかをテストするために、九州博多総合車両所で改造されたこの0系では、客室内部の座席が除去されたほか、測量機器が増設されています。また屋根にも観測用展望台を新設され、エンジニアがモニタリングできるようになっています。車外にはプローブと超音波検出器が設置され、前進する際に車体と建築や施設との距離、いかなる障害物とも接触していないかどうかを検出するため、車体の両側を取り囲んでいます。台湾に渡ってきた「0系花魁車(おいらん車)」はすでに動力はなく、自力では走行できませんでした。0系と同じく日本からやって来たDD14型ディーセル機関車で牽引してはじめて任務を実行できるようになりました。

建築限界測定作業

リミットスイッチ リミットスイッチ

モニターのホストコンピューター モニターのホストコンピューター

A.開閉可能な窓 B.超音波検出器 A.開閉可能な窓 B.超音波検出器

観測用展望台 観測用展望台

軌道の路床のスタイル

台湾高速鉄道では沿線の地質的条件に対応し、また最も安全で最高品質の乗り心地を提供するため、レールの道床のデザインコンセプトにそれぞれ日本式スラブ軌道(J-SLAB)、レーダ軌道(Rheda)、低振動軌道(LVT)、バラスト軌道(Ballast Track)及び台北駅構内だけにある埋込み型軌道(Embedded Rail System)が採用されています。

日本式スラブ軌道(J-SLAB)

橋梁区間には同じように地震に苦しめられてきた日本が汎用する「日本式スラブ軌道」(J-SLAB)が採用されています。日本式スラブ軌道ではプレキャストコンクリート工法で製作され、さらに橋梁に運搬して敷設されます。またCAモルタルで固定されていることにより、軌道の品質と施工速度を兼ね合えます。このためスラブ軌道は台湾高速鉄道の軌道全線の約80.9%を占めています。(展示館ではこの形式の軌道を使用しています)

日本式スラブ軌道(J-SLAB)

レーダ軌道(Rheda 2000)

駅付近と駅構内には「レーダ軌道」(Rheda軌道)が採用されています。非常に正確に分岐器の転換検知ができ、軌道を動かすシステム(転てつ器)と組み合わせることで最も安全な仕組みになっています。台湾高速鉄道の軌道全線の約14%を占めています。

レーダ軌道(Rheda 2000)

低振動軌道(LVT)

台北の地下区間(板橋から南港まで)に設置されています。700T 列車が走行している台北の都会エリアでは付近の住民への振動と騒音による影響を防止するため、「低振動軌道」(Low Vibration Trackform,LVT)が採用されています。コンクリートブロックの下の二層の弾力性のあるプラスチックボードが列車運行時の圧力を吸収することで振動と騒音を低減させることができます。台湾高速鉄道の軌道全線の約3.6%を占めています。

低振動軌道(LVT)

バラスト軌道(Ballast Track)

バラストの用途は列車の軌道と地面に対する圧力を減少させ、排水も容易です。台湾高速鉄道では左営駅と保守基地などの一部の平面区間のみ採用されています。列車運行による騒音が住民の生活品質への影響を減少しています。

バラスト軌道(Ballast Track)

台湾における鉄道テクノロジーの進化の歴史

台湾にはかつて様々な形式の列車がありました。初期の飽和式蒸気機関車から、より動力的な加熱式蒸気機関車へと進歩しました。続いて動力分散式のディーゼル車両が登場し、さらにディーゼル電気機関車と電気機関車へと発展しました。

台湾の鉄道動力技術は、蒸気からディーゼルエンジンへと転換し、最終的には電気化され、もっと走行音低減とスピディー性能持つ電車が登場しました。その後、性能のより優れた車体傾斜式車両がサービスに加わりました。台湾高速鉄道700T型列車も電車に属します。時速300キロに達し、台湾西部の「日帰り生活圏」を創り出しています。

時速は30キロから300キロまで進歩し、効率、性能とサービスも向上し続けています。鉄道技術史の進化のプロセスとして、また台湾の歴史の一部分として、各世代の台湾人生活の思い出となっているのです。


騰雲号(時速35キロ) - 運営:1888年

#台湾鉄道初の蒸気機関車
台湾鉄道初の蒸気機関車です。ドイツ製で、当時計2両の同じモデルの車両が台湾にやってきました。鉄道初期の建設作業に用いられ、のちに客車と貨物列車を牽引していました。本車両は1924年まで使用されて引退しました。極めて高い歴史的価値があって、国立台湾博物館に収蔵されています。

騰雲号(時速35キロ) - 運営:1888年

18号型 (時速35キロ) - 運営:1901年

#日本製機関車の黎明期における試み
日本の鉄道の「国産化」における最初期の作品です。イギリスと日本の両国の多数のメーカーにより製造されたため、イギリスのA4型機関車を参考、模倣して製造されています。1900~1920年代にかけて台湾鉄道の主力の蒸気機関車の1つでした。日本統治時代の番号は18号型でしたが、戦後は台湾鉄道によりBK10型に変更されています。

18号型 (時速35キロ) - 運営:1901年

500号型 (時速75キロ) - 運営:1919年

#大正時代の新鋭であり代表作
日本により研究開発、設計、量産されました。同時期の800型と並び「大正の両雄」と称されて、日本鉄道が「国産化」に成功した代表作です。1920年代には西部幹線の特快列車を担当しました。戦後CT150 型へと変更し、鉄道の電気化まで使用されていました。

500号型 (時速75キロ) - 運営:191

C55型(時速85キロ) - 運営:1935年

#流線型時代を更に加速させる
蒸気機関車の技術的成熟期の作品です。車体の構造にはすでに大量のはんだ付けが使用され、ボイラーの上部にある蒸気ドラムと砂箱を一体化させていました。以前の車両と比べ、流線と現代感を備えていましたが、動輪には初期のスポーク動輪が採用されていました。戦後にはCT250型に改編されました。

C55型(時速85キロ) - 運営:1935年

DR2500型(時速105キロ) - 運営:1955年

#1日で台北と高雄を往復できるように
台湾鉄道は第二次世界大戦後、元からあるガソリン客車を続々とディーゼルエンジンへと変更し、優れた効果があることを発見しました。加えてアメリカによる支援後、線路と信号が大幅に改善されました。1955年新たに購入されたディーゼル車両が編成され、台北-高雄間にて5時間30分の新記録を打ち立てました。「柴油飛快車(飛ぶように速いディーゼル列車)の名声は当時広く知られていました。

DR2500型(時速105キロ) - 運営:1955年

R20型(時速100キロ) - 運営:1960年

#西部幹線初のディーゼル機関車
台湾鉄道では1950年代末期に動力のディーゼル化を展開しました。アメリカ製R20型ディーゼル機関車は、最も初期に使用開始となった車両です。ディーゼル機関車はディーゼルエンジンにより発電し、牽引モーターを動かします。蒸気機関車と比べ、エネルギー効率と空気汚染において大幅な改善がもたらされました。

R20型(時速100キロ) - 運営:1960年

DR2700型 (時速110キロ) - 運営:1966年

#電化前の最高速の列車
ディーゼル飛快車 (DR2500、DR2600)の後継モデルです。日本製ですが、アメリカBudd社のディーゼル機関車の概念が採用されています。車体はステンレススチールで製造され、屋根には大型の放熱器が設置されています。1966年の登場時に「光華号」と命名されました。台北から高雄まで4時間45分、当時陸上で最速の交通機関でした。

DR2700型 (時速110キロ) - 運営:1966年

EMU100型 (時速120キロ) - 運営:1978年

#台湾初のEMU電車
西部鉄道の電気化の際には、様々な電力車両が導入されました。その中でEMU100型は台湾初のEMU電車で、初めて運転時の時速が120キロまで向上しました。速度が速いことの外、車内には冷房と高級な内装が施されており、台湾鉄道のサービスにおける初の歴史的なマイルストーンと言えます。

EMU100型 (時速120キロ) - 運営:1978年

TEMU1000型 (時速140キロ) - 運営:2007年

#台湾初の車体傾斜式車両
台湾東部の幹線にはカーブが多く、運行上の制限となっていました。このため2006年に「車体傾斜式車両」TEMU1000型が導入され、当時「太魯閣(タロコ)号」と命名されました。列車はカーブを通過するとともに車体が傾斜し、高速でのカーブ通過時の乗り心地を向上させています。

TEMU1000型 (時速140キロ) - 運営:2007年

700T(時速300キロ) - 運営:2007年

#台湾高速鉄道の日帰り生活圏
台湾初の高速鉄道列車です。2007年1月5日に台湾高速鉄道が開通し、台北-高雄間をわずか90分間で走行できるようになったことで、台湾西部の「日帰り生活圏」が創り出されました。台湾高速鉄道の優れた安定性、サービス品質と上質なデザインで、台湾の交通運輸史に新たなページを開きました。

700T(時速300キロ) - 運営:2007年

展示エリア

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          開かれた密室 - 高速鉄道文物倉庫

          展示エリアB
          開かれた密室

          台湾高速鉄道の文化財保存施設では、高速鉄道の文化財を1万件以上収蔵し、台湾高速鉄道の文化資産の礎を確固たるものにしています。また台湾の鉄道文化資産の保存に新たな方針を打ち出しました。台湾高速鉄道の企業文化には深く厚い人文の精神が刻み込まれているのです。収集された文化財は正式に公開展示されたことはなく、少量のみ貸し出しての展示交流や展示が行われています。高速鉄道の文化財保存施設はまるで「コレクションの密室」となっていました。

          しかし既存の実体展示スペースには限りがあることから、台湾高速鉄道では台湾の博物館の型にはまった文化財保存施設のデザインスタイルを打ち破り、高速鉄道の文化財保存施設は「開かれた密室」方式で展示されています。収集と展示の双方向の機能を兼ね備えるほか、博物館の文化財保存施設に対する好奇心を満足させてくれます。効果的な収集スペースの応用により、もう世間と隔絶された密室ではなくなったのです。

          文化財保存施設では

          操作の説明

          「開かれた密室」にはハイテクノロジーによるLED合わせガラスが使用されています。それぞれのガラススクリーンの右上に表示されている「透明展示」ボタンを押すと、不透明のガラスが透明へと変化し、高速鉄道の文化財保存施設の様子が探索できるようになります。博物館の文化財保存施設には温度、湿度と、厳格な環境制御などが行われています。LED合わせガラスにより、その場で文化財保存施設と運営の内容を垣間見ることができます。

          高速鉄道文物倉庫
          高速鉄道文物倉庫

          高速鉄道文物倉庫

          創成期 - 2003年

          2003年10月16日 殷代表取締役の指示のもと、台湾高速鉄道公司は「人」と「物」の資料の検索を強調した、沿線の各区間の鉄道に関する文化財の研究、調査と収集整理作業を実施しました。

          大園時代 - 2004年 - 2007年

          2006年、建設に関する大量の文化財は借用された桃園倉庫に保管されていました。当時すでに将来的な運営期間で生み出される文物に向き合わなければならない時期が来ていました。2006年8月、国立科学工芸博物館に高速鉄道の文化財収集方針、分類、作業方法の制定が委託されました。

          大園文物倉庫時代、台湾高速鉄道の文化財に対する臨時登録と保管のみ行われていました。しかし物品数の増加と、収集価値はっきりしなくなってきた疑いがあることから、高速鉄道に協力した収集及び管理方針の完璧且つ確固た制定が必要となり、様々な専門家によるサポートが急務になりました。台湾高速鉄道公司では開物国チームへの委託招聘に成功し、率先して国外最先端の文化財の整理技術を導入することで、台湾高速鉄道の文化財の保管維持の重要な礎を正式で堅固なものにすることができました。

          高速鉄道文物倉庫
          高速鉄道文物倉庫

          燕巣時代 - 2007年 - 2016年

          台湾高速鉄道の大園文化財保護施設のハードウェア設備の条件が不足である恐れがあることから、文化財の整理整頓とコレクションの環境と条件への必要性に基づき、台湾高速鉄道公司では新たに台湾高速鉄道の文化財保管施設を新たに高雄の燕巣総合車両工場に設けることで、収集の使用条件と規模をさらに発展させました。

          2007年12月10日、高速鉄道文化財保管施設は桃園県大園から高雄県にある燕巣総合車両工場に移転しました。略称は台湾高速鉄道燕巣文化財保管施設といいます。移転作業は膨大なものになりました。当時4,000件以上の高速鉄道の文化財があり、4回の運搬、多くの人員と20両以上の15トンの搬送車が動員されました。

          「高速鉄道文化財保管施設」は母の懐へと戻り、燕巣総合車両工場に我が家を見つけ出すことができました。委託された開物国・文物整理整頓プロフェッショナルチームは、高速鉄道の文化財の展示収集方針の修正と整理整頓作業を開始しました。台湾高速鉄道の文化財のために、文化財保管テクノロジーに準拠したエネルギーを注入し、文化財の収集管理システムを計画、構築しました。それぞれの文化財のため、博物館での展示保管とメンテナンスに準拠した温床を創り出すことで、高速鉄道の文化財の保管に対し、継続可能な発展の堅固な礎を築きました。

          高速鉄道文物倉庫
          高速鉄道文物倉庫

          探索館時代 - 2016年から現在

          13年にわたる文化財の募集収集を経て、文化財保管施設は燕巣総合車両工場から再度桃園探索館に移転されました。高速鉄道の文化財はすでに10年の時を超え、年月による鍛錬を経て、正式に台湾高速鉄道テクノロジーの展示の舞台に立つことになりました。